12年前は東京でホームレスに煙草を、1年前はNYでホームレスに1ドルを、今はコンビニで寄付をしている

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募金をすることが当人にもたらす莫大な効用について書く予定が、「募金が習慣化するに至ったきっかけ」だけで充分なボリュームになったので、本記事ではそこにフォーカスを当てることにする。

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一年前、ニューヨークでホームレスを見て

一年前のニューヨーク −

マンハッタンの路面店の軒先にはホームレスがポツポツといた。日本だとおじさんが多いのだが、ニューヨークでは青年や女性もいて、ときに10代に見える少年もいる。マクドナルドの店先に立って勝手にドア・ボーイとなりチップを求める人もいた。

一方でセントラルパークにあるメトロポリタン美術館のように、米国資本の権化のような施設もある。一日では回りきれず迷子になってしまうほど広い美術館が、国立でも州立でも市立でもなく、私立の美術館として運営されている。

強大な資本力を象徴する施設の軒先で、ホームレスがコインを投げ込む紙コップを置いて座っている。日本では公的に均される貧富が、さらに大きく目に見えるかたちで「個人の責任」として放置されていた。

メトロポリタン美術館(筆者撮影)

ただ、ホームレスを見ていてその態度に興味深いところもあった。簡単に言うと、「主張している」のである。

日本のホームレスは、新宿や上野に行けばそこかしこに見ることができる。(テキストにすると酷いが現実として、)だらんと体を横たえて悪臭を発し、金銭的な施しを渡す手段の提示もしていないことがほとんどのように思える。「人間失格」と言いたくはないが、希望が見えない。

一方でマンハッタンのホームレスは、きちんとお金を主張してくる。ダンボールに「Help」と書きつけ紙コップを置き、視線とときには笑顔すら投げかけてくる。施しを欲していることを見てわかるように主張してくる。「この人、ほんとうにホームレス?」 身なりに清潔感すら漂う人もいた。

12年前、東京でホームレスに煙草を渡す

12年前の東京 −

僕は宮城県の大学に通っていて、就職活動で上野や新宿に行く機会がよくあった。

それまで東北の田舎と宮城県仙台市(政令指定都市といえどほどよい規模感)で過ごしてきた自分にとって、上野公園のぎっしりと並んだダンボールハウスを目にするのははじめてだった。新宿駅の地下街に横たわるホームレスの人たちに(嫌だな)と思ったことも覚えている。

特に新宿の地下街はダンボールハウスもなく剥き出しの路面で横たわる人が多かったので、東京に行くたびに僕のホームレスに対する印象は最悪なものになっていった。「汚い」「臭い」「落伍者」「社会不適合者」「人間失格」。正直、目に入らないようにしていたと思う。

ホームレスも人間なんだ。そんなあたりまえのことに気がつくできごとがあった。

リクルート・スーツを着た姿で上野公園のベンチでタバコ休憩をしていると(当時はヘヴィ・スモーカーだった)、スーツ姿のおじさんに声を掛けられた。正確には声ではなく、人差し指と中指をそろえて口元でちょんちょん、と振る動作。これは(タバコ、くれないか?)のサインである。

(あ、小奇麗にしているけれど、この人はホームレスだろうな) すぐに直感した。

小奇麗にしていて悪臭もしないが(公園だったからかもしれない)、痩せた体を隠すようなスーツのシルエットや表出している髪や皮膚を見ればそれとなく伝わってくるものである。でも一番はやはり表情と目の光かもしれない。暗いのである。

マールボロのソフトケースの底を爪で叩き、おじさんに向ける。おじさんが一本取り出すと僕はすぐにライターに火を点け、煙草の前にかざす。おじさんはおいしそうに煙を肺いっぱい吸い込んだ。

吐き出す前に唐突に声をかけた。

「今、就職活動中なんです。仙台から来たんですが、なかなか大変で」

おじさんはびっくりしたように吸い込んだ息を止める。

別に大変でもなんでもなかったのだが、話のきっかけとして小さな嘘をついた。こう言えばおじさんの大変な話を聞き出せるではないか、という稚拙な打算である。

『おじさんはなぜホームレスになってしまったんですか?』

面と向かっては聞きづらいこの質問の応えを、本人から聞いてみたかった。

おじさんは肺に煙を溜めたままこちらに顔を向けてじっと覗き込んでくる…… が、何もしゃべらない。そういえば、タバコを求めたときも何もしゃべっていない。まだ声を聞いていない。

5秒ほどお互いの呼吸と時間が止まっていただろうか、おじさんが煙を吐き出すと同時に時間が動きはじめる。ついに声を発する、そんな気配。おじさんはもう一度、先程よりも大きく煙を吸い込む。数秒後、体内のカルマごと全部吐き出すように長く深く肺の空気を絞り出す。

ようやくおじさんは僕から視線を外し、残った煙を自身の足元に落として言う。

「そうかー……、兄ちゃんも大変やね」

口元は寂しそうに笑っている。

(あ、煙と一緒に本音も吐いた)

とても人間らしい一言だな、と僕は思った。

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ホームレスのおじさんは元経営者だった

おじさんは関東で事務機器の営業会社を経営していたという。中小企業の元社長さんである。

経営がうまく行かなくなり、借入れをして新規事業に乗り出したが失敗、妻に離婚を突きつけられ、子どもは妻の元へ、なんとかがんばろうと思ったが仕事が見つからず、元経営者のプライドも邪魔をして、流れて流れて上野公園、といった顛末だったと思う。まだ上野公園の初心者だという。

「ほんとね、どうしたらいいかわかんないよね」

どうしたらいいかわかんないのは、人生の見つけかたか、上野公園での振る舞いかたか。おじさんは悲しそうに笑う。

僕は話を聞きながら、(ぜんぜん他人事じゃないなぁ)、と思う。おじさんの背中は丸く、元経営者の面影はない。プライドなんてものはとうに捨ててしまったのかもしれない。

人生はよくわからないうちに転落することもある、と思っていたけれど、その実例のおじさんが目の前にいる。(やっぱりそんなものなのかなぁ) シニカルに社会を見る態度は昔も今も全然変わっていない。

お互いタバコ三本をゆっくりと吸ったくらいなので、せいぜい30分程度だったと思う。

さっき封を切ったばかりの煙草はまだ14本残っている。話を聞かせてくれたお礼に箱ごとおじさんに渡す。ついでに買ったばかりのペットボトルの水とガムを鞄から取り出してそれも渡す。

同情心から渡したわけではないし、かわいそうという気持ちすら持たなかった。なぜならば、自分だっておじさんの立場に転落する可能性はあるから。なにも特別なことじゃない。だから、同情する必然性がない。

話してくれてありがとう。感謝の気持ちで煙草や水を渡したのである。

お金は渡せなかった、だから煙草を渡した

なぜお金ではなくて煙草を渡したのかについて書いておこう。

たぶんおじさんが今ほんとうに求めているのは、煙草でもなく、水でもなく、何にでも交換可能な現金だったと思うし、それも理解していた。でも、僕みたいな就活中の学生にお金を渡されたのでは、おじさんのプライドがさらにズタズタに引き裂かれるであろう。

まだ一介の学生だった僕にとって、お金で施しを与えることは相手のプライドを傷つける失礼なことだと思っていた。お金は執着や争いをうむ汚いものだと思っていた。施しの手段として用いてはいけないものだと思っていた。上下関係を強制的につくり出す悪しき道具だと思っていた。感謝とお金は釣り合わないと思っていた。物ならばしがらみは生まれないと思っていた。

だから、物で代替した。

僕はペコリと会釈をしてベンチを立つ。数歩歩いて、ライターがないとおじさんが煙草を吸えないことに気がつく。スーツの胸ポケットを探り、コンビニで105円で買ったライターを渡す。不思議なことに、物であればこんなに簡単に渡すことができる。

(おじさんもがんばってね) 心のなかでつぶやく。もう一度お互いに会釈をして、僕は上野駅の公園口へ向かう。

1年前、NYでホームレスにお金を渡す実験

再び、一年前のニューヨーク −

マンハッタン(筆者撮影)

冒頭に書いたように、ニューヨークのホームレスには青年や女性もいて、ときに10代に見える少年もいて、彼らはわかりやすく「お金が必要である」と主張してくる。ダンボールに「Help」と書きつけ紙コップを置き、視線とときには笑顔すら投げかけてくる。

マンハッタンのロウアー・ウエスト・サイドに降り立ってホームレスの姿を見た瞬間、「これはお金への執着を手放す良いチャンスではないか」と直感的に思った。来るまでは考えもしなかったことである。

だって、彼らは素直にお金を求めているんだもの。12年前に感じた、お金で施しをすることのブロックは不要ではないか。

そこで僕は自分にルールを課した。

『ホームレスを見かけるたびに1ドル札を渡すこと』

結果、一週間弱で合計20ドル程度は渡せたのではないかと思う。

円ではなく、ドルであったことも功を奏した。はじめて取り扱ったセントコインやドル札はまるでオモチャのお金のようで、手放すことの抵抗感をいくらか和らげてくれた(お金であるということは充分に理解はしているのだけれども)

突然お金を差し出すアジア人に怪訝な目をする人もいたが、多くは弱々しい笑顔だったけれど「Thanks」と返してくれた。こちらも笑顔を返す。

困っている人にお金を手渡しし、感謝を受け取る。日本ではなかなかできない体験だし、しようとも考えなかったと思う。誰にも言っていないこんな小さなチャレンジが、僕のお金の執着を劇的に改善したのである。

今、コンビニで募金をしている

ようやく今に至る −

コンビニで募金をするようになった。社会貢献のためではない。超実践的に、自分のためである。

ちっちゃいことだと思われるかもしれない。いきなりスケールダウンしたと思われるかもしれない。でも、コンビニで継続的に募金をしている人がこれを読んでいる人の中で何人いるだろうか?

僕は三人の子どもを育てるシングルファザーなので、いわゆる「ラテマネー」というか、余計なお金は驚くほど使わない(でもごくたまにコンビニは行く)。もともと欲が少ないことも幸いしていると思う(欲が少ない弊害も多々あることは理解している)

ただ、ほんとうに必要と判断した場合には、とくに投資的観点でやるべきと判断したものについては、詳細を吟味し多くの金額を投入している。お金への投資に限らず、健康への投資も含めて(先日書いたガンリスク評価もこれに当たる)

募金は額としては少さいが必要な投資だと判断している。「肉を切らせて骨を断つ」ではないが、募金で小さなお金を遣いに出すことで、より大きな出費や浪費が減ると体験的に言える(お賽銭もその属性にカテゴライズしている)

あなたは「お金はエネルギー」という言葉を聞いたことがあると思う。そして、「お金はエネルギー」と言われても「それはただの精神論ではないか」と感じていると思う。

僕もそう思う。

ただ、こと「募金」に関してはスピリチュアルや精神論とは別もので、実践的に支出を減らしマネーリテラシーを高める手段たりえる行為なのであると僕は経験上言える。

その根拠をリストアップしたら、9つもの理由が見つかった。当記事も長くなったので次回に回すが、「募金という行為がいかにあなたの金銭感覚を正すか」について真剣に書こうと思う。募金をするためだけにコンビニに行きたくなるような記事にしたい。

※20170330追記 コンビニ寄付について書きました ↓↓↓

コンビニで1円,5円,10円を寄付すると、逆説的にお金が貯まるよ(再現性100%のライフハック)
こんにちは、ずかんです こちらの記事で書いたように、僕はコンビニでいつも寄付をしています。 で、なぜいつも寄付をしているかと……
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