こんにちは、ずかんです
やっぱ太宰はスゲーんですよ。

自撮り女子が輪郭を隠して小顔効果を狙う「歯痛ポーズ」を70年前に先取りする太宰治
実に10年以上ぶりに読みました。本棚でふと目にとまりパラパラ読み始めたのですが、ものの見事にその陰鬱な精神世界に引きずり込まれました。読後の印象は、
- 人間のすべてがこの小説に書いてある。すごい
- この人は頭の中で独りでずーっとしゃべってる。わかる
- 失格の烙印は気づかぬうちに捺されてる。こわい
すごい、わかる、こわい(はやい、やすい、うまい、みたいだ)
この作品完成の一ヶ月後、太宰は自らの命を断ちました。まさに彼の自伝であり遺書でもある「人間失格」。印象深い部分を抜粋しつつ、人間の真髄と僕の精神構造に迫っていきます。
(引用部分は「人間失格」より抜粋)
目次
外部評価に囚われて怯える生きかた
僕の話をします。
小学校時代に限定すれば、勉強も運動も「デキる子」でした。勉強に関してはオール5があたりまえ、運動でもリレーの選手、学芸会では先生に主役に指名される、といった具合です。
正確には「デキる子」という評価を親や先生に与えられて、必死にそれを取り繕い守ろうとしていた気がします。当時はもちろん言語化はできていませんが、子どもなりにこんなことを考えていました。
- 自分は親や先生の期待に応えてデキる子でいなければならない
- デキる子でなければ誰にも気に留めてもらえない
- 僕は自分が特別な人間ではないと知っている

期待という名の呪いのビーム
どこかで嘘つきの自分を自覚していて、常に漠然とした不安がつきまとっていました。
太宰は学校の苦悩をこう表現します。
しかし、ああ、学校!
自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、はなはだ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、あるひとりの全知全能の者に見破られ、木っ端みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかされる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。
僕を見破ったのはY君でした。
子どもはおとなが見えないものがよく見えます。Y君は僕の漠然とした不安を見抜いたのでしょう、僕をからかいやイジメの対象としていきます。
Y君は背が高く力もありました。小学生同士のパワーバランスは、言葉どおりパワーで、すなわち筋力で決まります。具体的には、足の速さだったりサッカーのうまさだったりするわけです。小柄な僕はY君にはかなわず、彼もそれを見抜いていました。
僕の「困難に直面したら目を背ける。逃げる」といった性質は、この頃にはすでに萌芽し、急速に形になっていったと思います。Y君から逃げました。必死に逃げることで、僕を形作る「外部評価」の殻が割れないように守ろうとしたわけです。
なぜここまで外部評価を気にする人間になったのかというと、次に書くように、「褒められて育った」からではないかと思っています。
(なおY君と高校時代に再会したとき、彼のふるまいからは怯えのようなものが滲み出ていました。また、自分は恐れを思い出すようなことはありませんでした。もしかしたら同じ穴のムジナ、彼も僕を畏れていたのかもしれないです)
褒めて育てられた、その弊害
心理学者のアルフレッド・アドラーは「子どもを褒めてはいけない」と言います。
一方で「ほめ育」という育児方針も目にすることが多いですよね。僕としては前者のアドラーの考えに共感します。その理由はまさに上で書いた小学校時代の原体験にあります。
太宰の書くこのような恐怖が僕にも確信的にありました。
人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。
僕は周りに褒められることで、褒められている自分に価値を感じる人間になりました。自分の価値を外部評価に依存してしまったということ。これは精神状態として非常に脆い。すぐに壊れます。
自分の価値を外部評価に委ねるということは、裏返せば、
- 褒められなければ頑張らない
- 褒められない自分に価値はない
- 評価を下げる困難に直面したら逃げる
そんな人間になってしまう、ということだからです。
自分の劣勢と不安をY君に見抜かれてえぐられたときの身の毛のよだつ感覚は、しつこく心の奥底にこびりついているような気がします。内的な自己評価がない人間は、たったひとつの外部評価を全体化して自分に当てはめてしまうのです。
本質は内向的なので、外向的に振る舞うことが苦痛でした。自分をさらけ出すことが評価を下げることにつながると思っていたからです。
ただし「社交的」にふるまうのは僕にとって簡単でした。ここで問題が生じます。特に学校という組織においては、「社交的」=「外向的」という間違った等式が信じられ、先生ですらそれを押し付けてきたことです。例えば学芸会の主役を指名するような。
内向的と社交的は相反しない
自分では内向的人間だと思っているのに、まわりからは「社交的だね」と言われる。「私、当てはまる」というかたもけっこういるのではないでしょうか。
「内向的」の対義語が「外向的」であることは誰もが単語上は理解していますが、「外向的」を「社交的」の同義語をして捉えるのは大きな間違いです。
下図左で示すように、「内向的」の対義語は「社交的」ではありません。下図右のように「内向的」の対義語は「外向的」であり、「社交的」の対義語は「非社交的」です。ふたつは別軸になります。

内向的だけど社交的な人はいる
人間失格の主人公である大庭葉蔵は陰鬱な雰囲気を纏っていますが、「非社交的」なわけではありません。「内向的」で「社交的」、上図で示す★の領域に属します。太宰治もそうでしょう。自分もそうだと思います。
実はこの領域は自己矛盾と社会的ジレンマを抱えやすいんです。前述の通り、現代社会において「社交的」であることは「外向的」な人間だ、と判断されがちなので。
上図右の「右上の領域★」にいたいのに、右下に引きずり下ろされるというわけです。
他者を演じることについて太宰は、あるタイプの人間にとっては容易なことであると表現します。
俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親眷属全部そろって坐っている一部屋の中にあっては、いかなる名優も演技どころではなくなるのではないでしょうか。けれども自分は演じてきました。しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。それほどの曲者が、他郷に出て、万が一にも演じそこねるなどという事はないわけでした。
自分のような「内向的」で「社交的」な人間にとって、自分を演じる名優になることは難しいことではありません。特に知り合いのいない土地やまだ気のおけない関係になっていないコミュニティにおいては特に簡単です。
己が超のつく内向的な性格であることを自覚しているので、できれば自分以外の誰とも話したくない。しかし相手がまったくの他人で今後会う予定がないことをほぼ確信できると、いくらでも社交的になれるんです。
ゆえに一見のバーで隣の女の子に話しかけることやNYでアメリカ人とコミュニケーションをとることに抵抗はさほどありません。初見では社交的という第一印象を持たれることになります。
しかし現代社会は外向的人間により高い評価を与えます。よって化けの皮が剥がれないかと恐れながら外向的な自分を演じ続けなければいけないというわけです。
これはけっこう苦しかった。喜劇であり、悲劇でもありました。
内向者の言葉遊び コメとトラ シノとアント
ちょっと話は変わりまして、主人公の大庭葉蔵と腐れ縁の掘木による「言葉遊び」がとてもおもしろいです。
自分たちはその時、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをはじめました。これは、自分の発明した遊戯で、名詞には、すべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの別があるけれども、それと同時に、喜劇名詞、悲劇名詞の区別もあってしかるべきだ、たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞で、市電とバスは、いずれも喜劇名詞、なぜそうなのか、それがわからぬ者は芸術を談ずるに足らん、喜劇に一個でも悲劇をさしはさんでいる劇作家は、すでにそれだけで落第、悲劇の場合もまたしかり、といったようなわけなのでした。
実に、実に内向的な遊びです。
自分が「芸術を談ずるに足」るかどうかはわかりませんが、大庭の言う喜劇名詞(コメ丨コメディ)と悲劇名詞(トラ丨トラジディ)の分別には納得がいくものがあります。確かに汽船と汽車の情景は悲劇名詞(トラ)ですね。市電とバスのせわしなさはまさに喜劇名詞(コメ)です。
この遊びにおもしろさを感じれるかどうかは、内向的であるかどうかが大きく寄与している気がします。内向的な人は、頭の中で独りでずーっとしゃべってるんです。(楽しげな雰囲気だろうな)(悲しい音がするだろうな)(いや、しかし…… )みたいに。
単語ひとつをキャッチアップしたときに、ものの形や風景だけではなく、情景までセットで浮かぶかどうか-

空気感や音で感じる悲劇名詞の情景
上図の情景まで浮かべば、汽船は悲劇名詞(トラ丨トラジディ)でしょう。これは実際に体験したかどうかのみではなく、内向的に頭の中で独りでずーっとしゃべってるかどうかの影響が大きいのではないか。そんなふうに内向的な人間の僕は思います。
今手元にあるもので考えてみれば、マウスはコメで、小説「人間失格」はトラです。テーブルセットはコメですね。色温度は高いけど光量の小さい我が家の照明はトラです。文字はコメ。時計はトラ。珈琲も…… トラ。
ほか、シノニム(同義語)とアントニム(対義語)の言葉遊びもあります。例えば先図の内向的・社交的については、
「内向的のアントニムは?」「外向的」「うん…… 社交的ではだめか?」「それはある意味シノニム」「ほう、なぜ」「他人の目を気にしない」
というような掛け合いが書かれており、非常にコメです(↑ この掛け合いは僕が勝手につくった)
うつの習癖、「自分が悪いのだ」
さて、ストーリーに戻ります。主人公の大庭はツネ子という女性と鎌倉の海で心中を図り、自身のみが生き残ってしまいます。
罪のアントニム(対義語)についてダベっているときに自ら発した問いに対する堀木の返しを受けて、大庭は内向的性格そのままに自己との対話を始めます。
「君には、罪というものが、まるで興味ないらしいね」
「そりゃそうさ、お前のように、罪人ではないんだから。おれは道楽はしても、女を死なせたり、女から金を巻き上げたりなんかはしねえよ」
死なせたのではない、巻き上げたのではない、と心のどこかで幽かな、けれども必死の抗議の声が起っても、しかし、また、いや自分が悪いのだとすぐに思いかえしてしまうこの習癖。
自分には、どうしても、正面切っての議論ができません。
うつの傾向に陥りがちな人、この思考回路が自動的に立ち上がりませんか? 「心のなかで必死の抗議の声が起こる」けれど、「いや自分が悪いのだ」と抱え込み、相手と「正面切っての議論ができません」という傾向。
僕はそうでしたね、これ。すごくわかります。
むしろ非社交的であれば人間関係で悩まずにすむのに、自己評価がタブラ・ラーサ(空白)のために外部評価で自分を形づくろうとするわけです。
ゆえに外部評価を高めるために社交的に振る舞うわけですが、生来の内向性が外向的な領域に引きづられることを苦痛に感じる。
不思議ですよね。この人は頭の中でずーっと独りでしゃべってるにも関わらず、内側からつくられる「自分」がないんです。よくわかります。
神に問う。信頼は罪なりや
「信頼」ってなんでしょう?
「裏切られた」と感じるのは、「信頼」を傷つけられたからなのでしょうか。そもそも相手との関係性次第で失われる「それ」は、果たして「信頼」と呼ぶに足るものだったのでしょうか。「信頼」ではなく、取引的性質のある「信用」にすぎないのではないでしょうか。
ただ、「信頼」が暴力的に「警戒」へと反転させられることもある。それを僕も知っています。
堀木と喜劇名詞や悲劇名詞の言葉遊びをしていたころ、主人公の大庭はヨシ子という女性を内縁の妻として同棲生活をおくっていました。器量も容姿も良いわけではないヨシ子を大庭が愛していたのは、ただ一点、「無垢の信頼」という稀で唯一無二の美質でした。
住居の二階で腐れ縁の堀木と先のトラ・コメ言葉遊びにいそしんでいるとき、一階ではその「無垢の信頼」故の一大事件がヨシ子を襲います。無学な小男の商人に犯されてしまうのです。
「なんにも、しないからって言って、……」とヨシ子は言いますが、この事実を許すも許さないもないでしょう。ヨシ子は信頼の天才で、人を疑うことを知らないのですから。そしてそれが大庭にとってのヨシ子の美質であって、唯一の存在意義でした。
でも、それゆえに悲惨にまきこまれてしまった。そこで大庭は問います。
神に問う。信頼は罪なりや。
きっついですね、これは。
相手がこのブログを見ることはないと思いますが念のためボカして書くと、僕も過去に大庭と似たような経験があります。彼女とはいわゆる遠距離恋愛の状態だったのですが、酒の場で、酩酊状態になるほど呑まされて、ほぼ覚えていない、相手は二人、という状況だったと聞きました。
絶望、それ以上でした。
ただ、ここで自分だけが怒りや悲しみに支配されるのは違うとも思ってしまったんです。「一番悲しいのはこの子なんだ」とすり替えて、彼女を守る側に回るという行動をとったんですね。ゆえに自身のネガティブな感情は抑圧されて、うまく処理できませんでした。
今考えると、これは良くなかったな、と。ちゃんと自分の感情も処理しておくべきだったな、と。
なお、人間失格の中での小男もそうですが、僕の体験した悲劇の加害者もそのときばかりでもう人生の物語に登場することはありません。加害者はもはや何も覚えていないでしょうが、被害者であるこちらはことあるごとに思い出し苦しめられることになります。
はたして、無垢の信頼心は、罪の源泉なりや。
小男に犯されたという一回のできごとで、ヨシ子の持つ「無垢の信頼」は汚され、大庭への態度はオロオロビクビクしたよそよそしいものになってしまいました。大庭の中で確信されていたはずの、ヨシ子の唯一の美質と見ていた「無垢の信頼」像も崩壊してしまいました。
無垢の信頼心は、罪なりや。
こうなるともう、「無垢の信頼」の意味は完全に反転します。アントニム(対義語)である「不純の警戒」に180°変わってしまったわけです。
「小男だけでないのでは? 実は堀木とも? 他の自分が知らない人とも?」
これはきっつい。でも、わかる。
常に相手のことを疑い、監視するようなどす黒い心境。相手の「無垢の信頼」に寄せていた自身の「無垢の信頼」の崩壊。アイデンティティの消失、人間失格にまっしぐらです。
ニヒリズムの行く末
ニヒリズムとは虚無主義のことで、「この世界や人間の存在に意義や目的はない」という哲学的な主張のことです。
自我崩壊し生きる意義を失いつつある大庭は神に問います。
神に問う。無抵抗は罪なりや?
困難に抵抗せず流されるのは罪深いことですか? 「神」という対象が書かれていますが、超内向的な大庭にとって(また太宰にとっても)、神は自分自身でしょう。自分に問いかけているのです。
独の哲学者フリードリヒ・ニーチェは、ニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度を二つ示しています。
さて、主人公の大庭がとった態度はどちらなのか? その答えは物語の結末で明確に語られています。
いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、いっさいは過ぎてゆきます。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きてきたいわゆる「人間」の世界において、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
ただ、いっさいは過ぎてゆきます。
自分はことし、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。
明確に「弱さのニヒリズム」です。
それを選択した(それしか選択肢はなかったでしょう)大庭は、小説のタイトルどおり、人間失格の世界へと堕ちていきます。サナトリウムで幸福も不幸も生も死も感じない世界を漂うわけです。
手記は唐突に年齢のはなしで閉じられます。「まだ27歳だったんだ」と、読者みんなが驚くところだと思います。大庭が「四十以上に見られます」と言うように、痩せ細って憔悴しきった猫背で青白く陰鬱な空気を纏った40代くらいの男性が読者のイメージにつくられているからです。
まとめ 人間のすべてが人間失格に書いてあった
実に10年ぶりに読んだ人間失格は、人間のすべてが描かれた、非常に示唆に富む物語でした。創作と言いつつ、これが太宰治の自語りであることは疑いようがないでしょう。事実、この作品完成の一ヶ月後、太宰は自らの命を断っています。
- 人間のすべてがこの小説に書いてある。すごい
- この人は頭の中で独りでずーっとしゃべってる。わかる
- 失格の烙印は気づかぬうちに捺されてる。こわい
10年前と大きく読後感が違うのは、感情を論理的に見ることができるようになったからと、表現する語録が増えたからでしょう。とくにニーチェのニヒリズムと対峙する二つの態度と、人間失格を掛け合わせたときに、物語はより一層深いものになりました。
現代においてニヒリズムの行く末は、何らかの負荷を意図的に与えない限りは、「弱さのニヒリズム」です。行く末は大庭と同じ(もちろん太宰とも同じ)、「人間失格」です。
なおニーチェは「強さのニヒリズム」の到達点も明確に示しています。自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」です。

「人間失格」か、「超人」か
どう生きるか、どう生きたいか。「弱さのニヒリズム」の先には何があるのか、「強さのニヒリズム」とはどのような態度か。
教科書にも載るような古典で、最も知られている日本文学といってもいい「人間失格」。そこには人間のすべてが書いてありました。
「死にたい 人間やめたい」とグーグルの検索窓に入力する前に、ぜひ再読してみることをおすすめします。救いもあるので。
これはあなたのことを描いた小説です。
今調べたところ、Kindle版は無料でした。


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