「どの大学を選ぶかで人生は決まります」
そう信じて疑わなかった青年(高校生)のお話。「そんなことないよ、いつでも人生は変えられるよ」と優しく過去のぼくに教えてあげたい。
今回はキャンペーン第4回。ちょっとスピンアウトして、過去の鈴木青年の深遠なる悩みについて書いてみようと思います。伝えたいメッセージは上にあるように、「そんなことないよ、いつでも人生は変えられるよ」です(笑)
目次
井の中の蛙、大海を知らず、年上の彼女に溺れて乱高下
勉強ってチョー簡単でした。
田んぼに囲まれた集落で育った少年。大自然に囲まれて野生児のように育つ……というよりも、どちらかというとカエルの鳴き声を聞きながらボーッとしている時間のほうがながかったかもしれない。
小学校中学校と、何もせずともトップクラスの成績。高校受験はオールクリア。私立は学費全額免除という特待生待遇、公立はみんな羨む地元の進学校(とは言え、同年代には東京大学の現役合格が数人というような程度の高校)。なんと、合格発表すら見に行かないという傲慢っぷりでした。
選んだのは公立の進学校。いまだ田舎では私立よりも公立のほうが信用と世間体評価が高いのです。両方受かったら公立を選択するというのがセオリーでした。

田んぼの中の集落で育った
で、このエセ天才パターン(←自分で言うな)には多いのですが、高校に入ると成績がガクーンと急降下するのです。なぜかというと、「勉強グセがついていない」から。努力というものを知らない。
ぼくの場合はそこにさらに「年上の彼女」という要素が加わって、もののみごとにタービュランスに巻き込まれて乱高下。入学時は上から両手で数えられるのが、大学受験を考えるころには下から両手で数えるところまで落ちていました。
高校時代の思い出ってありますか?ぼくはその年上の彼女との思い出しかない(笑)。
『ソフィーの世界』を読んで再確認、「ぼくは思索に耽って暮らしたい」
一人で思索に耽るのが好きです。
小さいときからそうです。マンガや本を読んで想像を膨らませたり、ゲームしながらより効率的な攻略法をもくもくと探したり。
さて、『ソフィーの世界』という本をご存知でしょうか。
分厚い本です。ソフィー少女が主人公の、哲学を素材としたファンタジー小説です。ベストセラーなので知っている人も多いかと思いますが、きちんと読んだひとはそんなにいないんじゃないでしょうか。
もともと持っていた性質が合致したのでしょう。この本にどハマリしまして。「哲学」という世界がリアルに自分の前に立ち上がってきました。
高校時代から真剣に考えていたんです。「思索に耽って暮らしたい……」と。友人には「遊んで暮らしたい」とぼやかして言ってましたけどね。さて、思索に耽って暮らすにはどうしたらよいのか……?
そんな色気づいた甘酸っぱい青春期を謳歌する鈴木青年。魔法使いではないので時の流れを止めることはできず、受験戦争という波が襲い掛かってくるわけです。
上智大学に哲学科というのがあるらしいぞ……ってダメだ文系だ
青年のまわりに哲人はいませんでした。
もしかしたらいたかもしれませんがで、青年は哲人を頼るということがどういうことかわかりませんでした。
当時はグーグル先生の存在も知らず。時代は1996年インターネット元年から数年経ての黎明期です。田舎の高校生がPCなど使えるはずもなく、就職指導室の進学本や赤本をみて大学の情報を探すわけです。
まず発見したのは、上智大学文学部哲学科。
おお……なんて知的な響きなんだ。しかも、英語で SOPHIA UNIVERSITY 。智慧・叡智。もくもくと思索に耽れる場所なんだろうか……ワクワク。でも私立だもんな。学費的にムリムリ。
他にもありそうだな。へー、東大にもあるんだ。ふーん……他には……
ここで多大なショックを受ける。哲学科のほとんどが、「文学部」か「人文学部」に配置されているぞ……と。
ちなみにに、今でもその体制は変わっていないようです。ほれ。

みごとに文学部と人文学部だらけ
ぼくはⅢCの微分積分で興奮するゴリゴリの理系でしたので、この時点で「哲学科」という選択がなくなってしまうわけです。「理系なのに文学部にいくなんてありえない」と。
当時は真剣にそう思ったんです。
あたりまえにわけて考えられている文系(哲学)と理系(科学)ですが、たかだか百数十年前までは分かれてはいなかったんですよね。教会(神学)がそのふたつを統合していた。明確に分かれたのは、詳しくは割愛しますが、ダーウィンの進化論によってだと言われています。
ダ・ヴィンチやミケランジェロはまさに統合者ですよね。
哲学科を出たら何者になれるのか。……あれ?もしかして何者にもなれない?
高校に入るとまず直面する、理系か文系かという(当時の気持ちでは)運命の選択があります。
ぼくの高校では「理系クラス」「普通科理系コース」「普通科文系コース」の3つ。なんとなく将来の道が増えそうだという気分で「普通科理系コース」を選択しました。
そんな曖昧な理由で理系を選んだぼくに、突如襲いかかってきた壁。それは、「哲学は文系の領域だ。理系の人は立入禁止!」という、当時はとても高く分厚い壁。
超えるにはどうすればよいだろうか……。どうしたら壊せるだろうか……。
もちろん思索に耽るのが好きなので、哲学を学んだあとの人生を思索してみるわけです。どんな仕事につけるのだろうか。手に職は持てるだろうか。人生楽しくいきていけるだろうか。明るい未来が見えるだろうか。

哲学的に脳内会議中……
……。
……な、なんにも見えないじゃないかぁ~。
「哲学を学んでも、何者にもなれる気がしない。それどころか、生活できる気がしない」
それが青年のだした答えでした。
東京大学に現役合格したクラスメイトに気が付かされた、自分のいいところに自分で気付くことのむずかしさ
休み時間も黙々と勉強を続ける物静かな女性。東京大学に現役合格したクラスメイト。
決して頭の良さを鼻にかけるような人ではありませんでした。休み時間もただ黙々と勉強をしていました。受験が近づくにつれて苦しみの表情が増してきたという印象が残っています。ただし、まわりに不快な空気を漏らすタイプでもありませんでした。
表向きはとても静かだけれど、内に確かな情熱を秘めている。
仲が良かったわけではありません。つるむ人種が明らかに違っていたし、その人は人間関係に依存するようなタイプでもなくて。
ぼくはただ遠目に、「こんなに勉強に集中できるなんてすごいな」「自分を律することができてすごいな」「没頭できることがあって羨ましいな」と、尊敬の眼差しで見ていました。
さて、文化祭のときです。
ぼくはもともと絵を描くのが好きで、舞台背景のデザインの統括をしていたんですね。で、完成に近づいた頃に、その東京大学を目指していた女性がぼくにポツリと言ったんです。
「こういう絵を描けるのがうらやましい」
(えぇっ!!!!!?)
すさまじいショックでした。青年のアタマに雷が落ちました。
こんなに勉強ができる人が、こんなに己を律して目標に淡々と向かい続けられる人が、こんなことを思っているなんて。
「ぼくはきみが己を律して勉強に打ち込めることがうらやましい。尊敬している」
ショックすぎて、そんな気の利いた返しもできず。
評価のものさしは一本だけじゃない。誰にでも何らかのいいところはある。そしてそのいいところに自分自身で気がつくのは難しい。人は見たいものを見るし、ないものねだりなんだ。
そんなことを強く感じたできごとでした。
右脳も左脳も中途半端なぼくはどこを目指すのか。建築という統合芸術の発見
右脳も左脳も中途半端。
【右脳】数学はけっこう好き。ベクトルと微積サイコー。でも、喜んで問題に向き合うわけじゃないし、数学者になれるような切れ味もない。物理も好きなほう。でも、解けるからって何?って感じだし、物理学者ってちょっとレベル違うでしょ。化学は大嫌い。モル見ると鳥肌が立つ。消えてくれ。
【左脳】言語系も嫌いじゃない。数学みたいに答えがひとつも気持ちいいけれど、国語みたいにファジーなのもそれはそれで心地良い。英語は今後話せるようになれたらいいなぁ。美術は好きだし比べれば得意なほうだけど、美術部入ってるわけじゃないし、美術部の作品見ると絶対にかなわないな。
【前頭葉】全般的にテストという時間が嫌いだ。時間に追われて解きたくない。時間よ追わないでくれ。あと、モルは見たくもない。モル嫌い。化学消えろ。
と、こんな感じでした。
右脳も左脳もそれなりにできるけど決して突出しているとはいえない中途半端なぼく。さて、いったいどこを目指せばいいのか。
「数学や物理が嫌いじゃない」
「デザイン・ものづくりが好き」
「思索に耽るのがすき」
……。
…………。
建築だ!!

丹下健三
そんな思考で、建築学科の道を選んだわけです。建築の道に進む人は、こういう道筋で選んだ人、けっこう多いんじゃないかなぁなんて思っています。
建築ってすごく哲学的なんです。目に見えるデザインからあえて存在を隠そうとするディテールまで、制作者の思考と哲学がギュウギュウに詰め込まれている。シンプルなデザインほどそうだったりします。
アップルなんか超哲学的プロダクトですよね。
親の仕事や先に大学に行った兄の影響も強いです。そして、実際は一浪して大学に入れたんですけどね。予備校時代は勉強はたくさんしたけど、ここでもいろいろあったなぁ。ギリギリで悪いことして強制退寮になったりとか。
以上、高校時代の青年のお話でした。
まとめ、自分のアタマを取り戻せ
結局、「いま、ここ」しかない
タイムマシーンはまだありません。
タイムマシーンがまだ存在しない今、「大学選びで人生が決まる」と本気で信じていた過去のあなたに「そんなことないよ、いつでも人生は変えられるよ」と伝えることはできません。でも、今のあなた自身に、これからの人生を考えるために、その言葉を伝えることはできます。
それによって何が変わるのか。それは、「現在のあなたが持つ過去の認識」です。過去へのネガティブなイメージと言ってもいいでしょう。
わかります?思考によって過去の自分を認め癒やすことは、タイムマシーンに乗って過去のあなたにアドバイスをするのと同じインパクトがあります。過去は変えられるということです。
過去のあなたを責める必要はまったくないと言い切れます。そのときの精一杯で、できることをきちんとしているのだから。ぼくが、就職指導室の進学本や赤本をみて哲学科を探し、無理だと決断し、建築の道を選んだように。そのことも認めてほめてあげればいいんです。
そして今、あれほど悩んで選んだ建築とはまた別の道に進んでいる。
人生って面白いですね。
結局、「いま、ここ」しかないんです。
『嫌われる勇気』への帰還
さて、一気に『嫌われる勇気』に戻りましょう。
ぼくはアドラー“心理学”ではなくアドラー“哲学”だと思います。これはぼくの中で、アドラーはまわりを分析・評価するツールではなく、自分自身というものを深く考えるためのものだという認識があるからです。
哲学の究極的な問である「自分とは何か?」を追求する姿勢。この姿勢は心理学ではなく哲学である。そう定義しています。
『嫌われる勇気』が「考える」ことを誘発するのはなぜか?
ひとりで黙々と考えるのが好きです。「自己との対話」ですね。でも、考えるトリガーになるものは何かというと、やはり「相手との対話」などの外部刺激なわけです。
『嫌われる勇気』は全編対話篇で物語が進行します。「相手との対話」を、哲学的なレベルで擬似体験できる仕掛けを打ってあります。素材が哲学という性質上、錆びついて開かなくなったあなたの「自己との対話」という扉もやさしくこじ開けてくれる。
ところどころに自分を投影できる余白を残してあるんです。
現状で満足している人は読まなくてもいい。ただ、少しでもより良い人生を送りたい、人生を変えたい、幸せになりたい、と思っている人は、読まないのは人生の損失かなぁとすら思ってしまいます。
もうすぐ続編も出版されます。予約受付中。
哲学的に問うことの科学的根拠。ぼくらはまだまだ成長できる
「自分とは何か?」
「生きるとは何か?」
「死とは何か?」
これら、哲学の先人が挑んだ問。あなたも青年期に真剣に悩み考えたことがあると思います。この悩みの中身とその悩む時期には科学的な根拠があります。
思考を司る前頭葉。上の図の赤の部分ですね。
この前頭葉の回路形成が完了する思春期に、上のような哲学的な問がアタマの中でスパークするのだとか。それによって、あなた自身の人格が形成されていくというわけです。人間らしさを形成する上で必要なのだと科学的にも証明されているのだと。
そして面白いのは、脳の成長は死ぬまで止まらないという研究結果が出てきているということ!
つまり、まだまだぼくらは成長できる。
*
第四回はここまで。あまり書かない過去のことを書いたら、なんと5,000文字超えです(笑)
次回は【第5回】、
哲学者の仕事は、考えることではなく……
というテーマで書いてみようと思います。
お楽しみに~。


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