書くことは自分を癒すこと【書評】職業としての小説家|村上春樹

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我ながら驚いたことが。

なんと、東京奇譚集(2005)以来の村上春樹本。たくさん出版されてるのかなと思ったけれど、長編に関しては2005年以降は『1Q84』と『色彩~』だけ。『1Q84』から読んでみよう。

さて、自伝的エッセイと称された『職業としての小説家』。村上春樹さん、相も変わらずおもしろい……! 本エッセイの主テーマは帯にあるとおり。

個人的には、

「私にとって小説とは何か」
オリジナリティ=誰も登っていない山を見つけよ
書く=自己の相対化・自浄作用・歪みの昇華

あたりの気づきを受け取りました。

珍しい肩書きやステータスは使うべきか?

肩書きについて。珍しい肩書き、受賞によるステータスは使うべきか? その物珍しさから名前を売ろうとする瞬間の加速度はつくれる。けれど、すぐに風化する。ようは、寿命が短い。

年月に耐えた普遍的な肩書きがやっぱり強いんだな、と思う。「小説家」とか「作家」は既に長い年月を耐えてきた肩書きで、たとえ媒体が紙だろうがデータだろうが、プラットフォームが変わっても残り続けていく。「漫画家」とかもね。

そして最終的には、やはり「村上春樹」のような個人名で覚えられるのが一番強い。それは間違いない。ペンネームやハンドルネームといったものでもよいのだろうけれど。

オリジナリティとは何か?

あの独特の文体は、やはり技術として、オリジナリティを獲得するために意識的に構築されたものなのだと。おぉ……。

さて、オリジナリティについて。みんなオリジナルというと『付け加えること』だけ考えてしまう。「この資格とこの資格を組み合わせてオリジナリティを出そう」とかね。

そんな特別なものじゃないと思う。自分のいいところ、ちょっとでもおもしろいところを誰かに聞いてみて(聞かなくても対話をヒントにして)、それをふたつ組み合わせるだけで、充分オリジナルであると言えるんじゃないかな。レヴィ=ストロースの言うブリコラージュ。

「オリジナリティは戦略的につくれ!」も正解かもしれない。でも、とにかく打ちだし続けるうちに周りが勝手に発見してくれる価値、それこそがオリジナリティなんじゃないかとぼくは思う。

あらためて、ぼくはオリジナルになり得るネタがたくさんある。でも、打ちだす勇気がない。オリジナリティを持ちたい。だから、打ちだしたいな、と思う。でも怖い(← 何がさ)。怖くて下のツイートのような開き直りができない。

いや、書きたいことは書けるな。オピニオンとしてね。でも、自分のネタをさらけ出すのは怖い。

「個の時代」は常に異端であれ

村上春樹さんの長編小説の通底にあるのは「“なにかよくわからないけれど大きくて邪悪なもの”への抵抗」だと分析している。「孤独な闘い」とか「レジスタンス」とか、そういう言葉がとてもよく似合う。

過ごした青春時代もあるかと思うのですが、村上春樹さんは「反骨の人」。「個」の在りようをとても大切にしている。

「個」と「全体」の二元論は、ぼく個人としては正直わからない。世の中すべてに通じるけれど、もう「バランス」としか言えない。時代による。

例えばフリースクール。フリースクールを義務教育の一環として認めようという動きが出ているけれど、義務教育として認められたら国家に絡め取られてもはや「フリー」とは言い切れなくなるんじゃないか、とか思ってしまう。

フリースクールが義務教育として認められることのメリットって、今の制度上の高校入学や大学入学に乗っかりやすくなる & 周りの目が少しだけ異端を見る目でなくなる & 運営側のお金の流れがよくなる ほかにはどんなものがあるかな?

いずれにせよ、大学の価値が失われたとき、フリースクールは異端であり続けたほうが大きな価値を持ちえるんじゃないか?とか思ってしまう。そして、大学の価値は失われるよ、確実に。「変わる」と言ってもいい。(※これに関しては末尾に過去投稿のリンクを貼るので後で読んでみてほしい)

ぼくもちょっと過激なのかもしれない。わからない。個人的には、「個」の時代が回復した今だからこそ、常に異端であることがスタンダードになるんじゃないかと考えている。

書くことは自分を癒すこと

ここからのくだりは、一言一句ウンウン同意しすぎて首がもげそう。

村上さんが「書くこと」「生きること」について隣でやさしく語りかけてくるような文体です。書くことで救われるという感覚がある人は、ぜひ一度読んでみてください。

※これからの大学の在りかたについてぼくが思うこと

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